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いやーカタカナにするとなんとなくカッコイイもんですね。


今回は、「投入」について話します。過去に何度かそれっぽいことを書いてあるのですが、なにせ頭の中に漠然としていることを、残り少ない歯磨き粉をチューブからうんうん唸って搾り出すような、とても肩のこるプロセスを経ているもんですから。
きっと、飽きられているのではないかなとも思います。

「投入」は、字を読んだままですと、注入、つまり、ガラス瓶にマヨネーズを入れているような動作のように捉えられるでしょう。が、それは表面がそのように見えるだけのこと。

私は生身の人間なので、あいにくそれで完結するほど単純には出来ていない。

ゲームや、相手の向こう側が見えない世界で何かをする時は、別の状態―バーチャルな領域に、自分とはちょっと違う人間を置くことになります。つまり、そこでは私の全てを注入することは到底かなうことはないので、力技だけでは、どんなにしても完全な投入にならない。

まあ、だからこそ遊びとして成り立つわけなんですが・・・

投入の方法、或いはプロセスとでも言いましょうか、いかにしてその領域に人間を置くかですが、勿論個人差が出てくるでしょうが、私の場合、これまでのゲームに向かっているところを振り返ってみると、それは積み木か、海岸の砂で作る大きな城みたいなものだと言います。

立体を整形するには、まず設計図が入用ですが、それは自分自身という図面がありますから、あえてこれとは違う人格として投入しようとすることのほかは、これを必要としませんね。むしろそのような気構えにあまり重要性は無いし、ともすれば足かせにもなりかねないですしね。

時間の進行と共に、多くの場面、多の人間と接することになり、さらにそれらの影響を多少ならずとも受けてゆくわけですからね。そしてそれらも工程の一部と考えればよいのです。

あまり格式張った言い方は良くないかもしれないけれど、境界の定まらない有限の世界は、そのモデルが比較的容易に作れます。

そして「社会」と言う漠然としたものでそれを捉える時、これまた漠然と「縮図」とか「相似」とかで片付けられてしまいそう。

でもそれは、この世界のグラフの軸が6本くらいあるのだとして、その4本目か5本目のどちらかが、そうなっているだけなので、もしもそこまで統制の利いた世界があるとしたら滑稽だし(統制している側の者をつかまえて「あんた何無駄なことしてる」と問うてしまいたい)だいいちそんなみもふたもないところをつついたって、どうなるものでもない。

あーつまり、計算や手続きで固定するものではないと言います。5つも作れるんだし。決別(リセット)も、もしかしたら大いなる意思がもたらされれば可能なんだし(私はそんなことしませんからね)。

けど・・・これはあくまで「私」の投入のことです。実際は私だってそんなこといちいち考えながらしているわきゃないし、今書いたことは他者と類似していることもあれば・・・いや、全く正反対のことの方がもしかしたら多いのかもしれない。
だって、日常との距離を案外近しくしてこのゲームと向き合っている人が多いような気がするからね。


そしてゲームの世界を、これまた一言で表すなら、そりゃぁ「カオス」なんだなと言いましょうか。ぶっちゃけ「どうでもいい」ってことなんだけど、実はそのどうでもいいってことは、案外なじみやすくて、慣れるととても心地よく感じてしまいますな。
浅くて長く続く広い澤にさす曙の光・・・みたいな。

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by cicadas | 2005-07-31 01:15 | 感情論(徒然に

感情論(6)異人評価

結論を先に言おう。

私はある人を指して「外国人」と言うことが大嫌いだし、私のたらちねが本州のことを「内地」と言うのも嫌いだ。

以降は、その私の感情を実況めいたことで、表現を試みるとしよう。

【なんだかなぁもう】
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by cicadas | 2005-07-26 02:44 | 感情論(徒然に

四字熟語として定着しつつある、或いはもうかなり昔から定着している「感情移入」。
感情とは何か(これがまさに当連載のテーマなんだけど)
ユーザーの感情、それは一人のユーザーが持っているそれの全てではない。

ユーザーがユーザーとして認識し得ることと、相手に認識させることの出来る最低公倍数みたいな、曖昧になりがちだけれども、7分か8分でも多過ぎるくらい、肩に力を入れては上手く行かない、部分的資質、感覚、だいたいそのようなことから生まれるもの。

本人が許せばいつまでもどこまでも厳格なものになったり、存在の耐えられないほど軽薄なものになったり。自身の内部における何か―まだはっきりとした名前が見つからない―をどれくらいの質量を投入するかによって、コントラストも違えば、比重も異なってくる。

感情移入、つまり、感情をある所、ある物、ある場面に移入すること入り込んだ状態は、その感情の持ち主が幾ら驚異的な能力を身につけたとしても、その人の持つ感情の「全て」を移入することは入り込ませることは不可能で、ありえないことだ(SF映画などではこの辺の描写は幾らでも可能なんだけどね)

感情の度量衡を仮定すると、移入は投入を超えられない。たとえばコンビニエンスストアーの売り上げは予定を超えられない。それは常に投入を継続しなければニーズに応じると言う目途が達成できないからだ(ごくまれに一致することがあるのだろうけどね)と言ったようなこと。

ところが困ったことに、感情を移入することは、たびたび独立して、又は、他より優先してなされる。というか、感情移入という現象は、それはもともと感情を投入していることから始まっているんだけど、いつしか我を忘れ、もともとの投入についてはもうどうでもいいみたいな感情に変貌して行って、すると自我の統制が空白な状態になって、無知無我的などうにも格好の悪い、面倒な状態に陥ってしまう恐れがある。

感情移入の状態に性質とか、品質とかがあるのだとしたら、最良なものなんて、おそらくはあまりそこらじゅうにあるようなものではないのだろう。

もちろん、投入するのは感情だけではない。そして、感情だけを捉えて、その個人を評価することは、それこそ無知無我的なものといわざるを得ない。

すると、その感情と言うものは、
面かそれ以上のものであって、決して線ではない。

幼かったころ、数十CCのシャボンを床にたらして、ストローで静かに息を吹き込んで、半球のシャボン玉を膨らませる遊びをやった。丁度そのシャボンをたらしたのが投入で、膨らませたシャボン玉の表面に光る虹色の縞模様を眺めていて夢中になっているのが移入の様だ。(うはぁー、思い起こせば、なんて創造的なことをしていたんだろう。一日でいいからあの頃に戻りたいねぇ。)

そして、その遊びで感情移入していたのが、実は感情だけではなかったとしたら、おそらくそれが、冒頭の設問に対する正確な答えになりそうなんだが、今となっては詳細に思い出すことはもはや出来ないので、こうして言葉をだらだらと連ねることによって、それを模索することしか出来ないんだろうな。
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by cicadas | 2005-07-24 01:17 | 感情論(徒然に

感情論(4)群集心理

(2)で場(フィールド)の共有について触れた。今回はその詳細を盛り込んでお届けする。


パソコンの技能、基礎知識における習熟度が上がるにつれて、やがてこの共有「シェア」の概念を経由することになる。古くはCOPYコマンドから始まっているのかもしれない。

COPYは情報を複製して指定した格納場所に転送する機能を有するDOSコマンドで、その辺りを学習したことがある人なら「あたりまえ過ぎることを」と憤慨されるかもしれない。

しかしながら、もともとパソコン黎明期において最初は何をしたかというと、それは○×ゲームであったし、HTTPの普及だって、大学と大学の間で論文などの情報交換、共有のために開発されたのが始まりだ。

さて、ここでずーっと長くてうんざりしてくるだろうテキストをずばばばばーんと吹っ飛ばして、いきなりMMORPGに移る。

複数のユーザーが(ほぼ)同時に、ネットワーク上の(ほぼ)同じゲームフィールドでキャラクターを動かす。それは(概ね)ゲーム進行上の「場」を共有していることにほかならない。

上の文の括弧でくくった「ほぼ」と「概ね」と言うのは、厳密に言えば、全てについて常に同時ではないし、ゲームフィールドが複数用意されているし、そればかりか、サーバーも複数用意されている。ので、これもまったく同じとは言い切れない。

共有が完成した形と言うのは、双方向に共有されることによってのみはじめて成立すると考えている。ので、客観的にこれらを記すことは、実は無謀なことだ。

さらに、ゲームに概ね場を共有している複数ユーザーをひとくくりにして「群集」として捉えることは、それさへだいたいなら可能であるが、いつまでも不完全にならざるを得ない。

そんな「だいたいな群衆」について、はたまたその「心理」について述べることは、これもまた遥かに無謀なことであり、(心理学を落とした)私にとっては苦痛以外の何物でもない。

しかしながら、「じゃあ止めれば?」なんて思う人が、おそらく複数いるとも想定できるわけで、共有を定義した今なら、気分次第で何でも創造することがいくらでも可能だ(絵空事なんだけどね)

乱暴に言えば、群集心理とは、だいたいそのような空想みたいなものであり、妄想みたいなものである。その範囲では何を共有しているのか・・・何も共有していないはずである。

もし、他のユーザーと一体感を持っていて、ゲームを進行していたとしよう。でもそれは一人一人が似たような感覚を持っていて、なんとなく接近している、身近に感じるだけなのであって、一人一人が群集として自覚することはまったくありえない。

ので、思い違いをしないように気をつけないといけないんじゃないかなぁ・・・

【だいたいな共有の例】
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by cicadas | 2005-07-22 02:37 | 感情論(徒然に

感情論(3)放牧文化

現実世界でとても憂鬱になることがある。

放置自転車がそれである。いったいぜんたい一人当たり何台所有しているのだろう。いまに・・・ていうかもはやニュージーランドの羊の数みみたいに、人口を遥か超える台数がこの国の領土を埋めているのではないかと・・・
あいや、ゲームの話でしたね。
キャラクターの数はと言うと・・・ユーザーは一つのアカウントにつきサーバー群で五つのキャラクターを作成できる。余計なことだが、一人のユーザーが複数のアカウントを持つことがあると、単純な積算でユーザーの数、はたまたキャラクターの数を推し測ることが不可能となる。家族兄弟の名前を借りて登録した場合、まったくもってパーソナリティの数を数えることが無味なこととなってしまう。

キャラクターにパーソナリティを提起した以上、それはもはやペットでもなければ道具でもない。キャラクターの名前は、特別なケースのほかは改名が許されないので、もはや遅いんだけど、倉庫なんですよみたいな命名をしたキャラにだって育てられる権利みたいなものはあるだろう。

いやそんなことは自由なので、どうこう言う必要は感じられないが、倉庫はあくまで機能として可能なだけなのであり、他の機能を利用することなく、それに限定する(縛る、固定すると言う意味で)ことは、もはやナンセンスだと、もう殆どの人が気付いているはずだ。
と、ここまでだらだらと書いて・・・
ふと思ったんだけど、僕らがそれぞれ会ったり見たり相手をしているのは、ユーザーなんだろうか、それともキャラクターなんだろうか。

公式ホームページのコミュニテイにある総合掲示板の投稿記事には、ユーザー固有の名前を登録する。これも特別なケースでない限り改名は出来ないらしい。とすると、それは1個のパーソナリティと捉えることが出来る。

けど、必ずしもそれを登録し利用しているユーザーのパーソナリティと一致させねばならないという決まりはないので、振舞いかたによっては、ゲーム上のキャラクターに投影したものと同様の演技が可能だし、その逆も可能だ。

そうすると、とても困ったことに、掲示板で演じていることと、ゲームで演じていることを同じ次元で捉えられてしまう不幸を負う。冷静に考えればそんなことはゲーム内のキャラ名と同じ名前を登録しない限りありえないはずなのに・・・いや、そうしてさへも、同一視してはならないのではないかと思うんだ。

でないと、羊に例えれば、違う牧場に同じ羊が少なからず存在することになって、それらが常に同じ呼吸をし、同じ方角を向いているかと思えば、いやいや、全く別々であるに違いないのだし、けれど、万に一度か二度、一致することもあるかもしれない・・・ってな具合に、考えれば考えるほど混沌としてくるような気がするんだ。
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by cicadas | 2005-07-20 03:01 | 感情論(徒然に

わかりきったことを言うとつまらないのだが、

プレーヤーとキャラクターとのインターフェースは、マウスとキーボードである。そして、ゲームの場面とプレーヤーとのインターフェースは、ディスプレイと、スピーカー(又はヘッドフォン)である。

個人商店の看板に時々「AFK」と言うのを見るが、その意味は、「キーボードから離れています」平たく言えば「放置」のことを言っているのだろう。これは紛れもなくインターフェースを一時的に断つことに他ならないのだが、実際のところ、何か他の作業をしながら、画面だけチラッと見ていたりすることだってあるにちがいない(自分は少なくとも十に一つ二つくらいそうしている)

ディスプレイの向こうまでは、何をしているか全く知る由もないし、またその必要もない。ゲームにおけるパーソナリティとは、ゲームの中、その世界で活躍しているキャラクターが持つもの、或いは、プレーヤーが自らのパーソナリティをそれに投影するものなんだろう。

MMORPGの奥深げなところはこの点にある。キャラクターに演じさせる状態、それには感情も表現できるし、又それを押し殺すことによって、個性的なパーソナリティを構成させることもできる。キャラクターはプレーヤーの分身であり、時には(一秒に60フレームあるならその4枚くらいか)プレーヤー自身になったりもするだろう。でも後者はたぶん錯覚で、実際はキャラクターに感情(或いは感覚)を移入した結果、そう感じているだけなのかもしれない。

このプレーヤーとキャラクターの関係は、古くからマンガの世界にもあって、作者とキャラクターの関係で語られることがあるが、呼吸が違う世界のことであるから、おおよそ似ているような感じがする程度で、実際にはたぶん似ても似つかないものなんだろう。

マンガのキャラクターと読者の関係だって、かなり距離感が違うけど、現実世界にその感情を呼び込んで一体感を得たような気分になることはしばしばある。とくに、多くのマンガに盛り込まれているテーマのひとつに「友情」と言うものがあるが、おそらくそれが、このような移入のトリガーとなっているに違いない。

だいぶ横道にそれたが・・・
リアルタイムではないけれど、ゲームの進行とは別の手段で、キャラクターのパーソナリティを補完することもできる。それは何かというと、このようなBlogや、私設ファンサイト、ホームページを公表することによって、他者と情報を共有することだ。

しかしこれには欠点もあって、もともとそれらの媒体に乗ったメッセージと、ゲーム世界において共有される情報とは、全く別物であることを予め認識した上でそれらを利用しなければ、殆どの場合混乱を招く危険性をはらんでいる。

ゲーム世界において直接会って話したり、戦闘したり、基本的に前述のインターフェースを介して通じ合うほかに、最良の選択などありえない。実際、ゲームはプレイしていて楽しいし、なによりその点を、仲間や行きずりで会ったプレーヤー(のキャラクター)と共有していることが、MMORPGの基本と言える。

裏返して言えば、自分以外のプレーヤーとリアルタイムで通じるには、インターフェースを介してメッセージと、動きを示すこと以外に方法はない。
そしてそれ以上にああしたいこうしたいと言うニーズに応じて仕様が改変されるみたいなゲームは、実はゲームではない。だってMMORPGにとって「場面の共有」は、基本設計における必須項目なんだから。

いや、ほんと、わかりきったことだったかね。

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by cicadas | 2005-07-17 04:04 | 感情論(徒然に

プリストンテールのなかで繰り広げられるさまざまな出来事に関する「感情」をテーマにした随想のようなものを書き溜めて行こうと思い、追加しました。

【注意】
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by cicadas | 2005-07-16 14:02 | 当ブログについて


痛くなるバグ、それは実はプログラムを納品したら最期、「仕様です」と突っぱねるしかないのでしょうね開発側にとっては。
もっとも、戦闘をデザインして痛くならないことの方が(ゲームとして成り立たないことになるのだから)致命的な気がしなくもない。

そこでここでは、きつい、死にたくない、こんなのやってられるか等等、行き場のない感情をそれぞれオブジェクトとして捉えてみる。

すると、実にそれは行き場のないことが仕様であるために、それ自体がプロローグで述べたような自動的に自分の方に返ってくる状態になって、秒を重ねるごとに傷を負い、朽ち果て、そして消えてゆく。
僕ら人間はそんなオブジェクトを生産してはばら撒いている。自分の持っていた鬱憤が、さも重荷だったから破棄したのだと言いたげに。

無論、鬱憤をそのまま保って蓄積していたら、そのうち息が詰まってくる。それは理解できる。しかし、これをいかにして効率よく、そしてかっこよくきれいに処理できるのか考えてみようとしても、なかなか難しいんだな。
で、特段意識して処理しなくとも、たいして前後に変化がなかったり、振り返ると、なんだか無駄にもがいて、余計なエナジーを消費してしまって、ちょっぴり損した気分になったりもするんだ。

だが、いずれの場合においても、これだけは言える。僕らが意識しようとしまいと、そのオブジェクトは、自分の中から一回でも外に出されれば、いずれ時の流れとともに朽ち果てて、消えていってしまう。
多くの大人が未成年を蔑視するのは、その光景のようなことが、たぶんなんとなく「美しくない」と思っているからなんだろう。

して、どこまでもきちんと片付けたくて仕方がない、とにかく一刻も早くそれを処理したいがために、細かくちぎっては投げ、ちぎっては投げを繰り返すのだろうか。

そんな風に考えると、寂しさ切なさなどとっくに通り越して、むしろしみじみとうれしくなったりもするんだ。だって、それって干草のベッドみたいにひとくくりにして、乗っかって弾んでいるような無邪気な光景を連想することが出来るような気がするから。
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by cicadas | 2005-07-16 02:38 | 感情論(徒然に

感情論プロローグ

掲示板にメッセージを書く行為は、他者に何かを伝えることを目的としている。
と同時に、自分に対してもそれを投げかけている。
それを受け止める他者がいなければ、又、それを吸収する他者がいなければ、必ず、それは全て自分に返ってくる。

地球上の生物の内、「笑う」ことが出来るのは人間だけだと言われている。
でもそれは、自他の関係における前述のメッセージとは、ちょっと性質が違うような気がする。

例えば「微笑み」は他に投げかけるものである以前に、あくまでも自己において完結した上で他に投じなければ成立していない。いや、常にそのような順序で、相手の感情に関係なく確実に、あくまでも自ら発すると同時に常に自らに投げかけている感情であると思料する。

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by cicadas | 2005-07-16 01:56 | 感情論(徒然に

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by cicadas | 2005-07-13 00:20 | memo