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感情論(5)感情の移入と投入

四字熟語として定着しつつある、或いはもうかなり昔から定着している「感情移入」。
感情とは何か(これがまさに当連載のテーマなんだけど)
ユーザーの感情、それは一人のユーザーが持っているそれの全てではない。

ユーザーがユーザーとして認識し得ることと、相手に認識させることの出来る最低公倍数みたいな、曖昧になりがちだけれども、7分か8分でも多過ぎるくらい、肩に力を入れては上手く行かない、部分的資質、感覚、だいたいそのようなことから生まれるもの。

本人が許せばいつまでもどこまでも厳格なものになったり、存在の耐えられないほど軽薄なものになったり。自身の内部における何か―まだはっきりとした名前が見つからない―をどれくらいの質量を投入するかによって、コントラストも違えば、比重も異なってくる。

感情移入、つまり、感情をある所、ある物、ある場面に移入すること入り込んだ状態は、その感情の持ち主が幾ら驚異的な能力を身につけたとしても、その人の持つ感情の「全て」を移入することは入り込ませることは不可能で、ありえないことだ(SF映画などではこの辺の描写は幾らでも可能なんだけどね)

感情の度量衡を仮定すると、移入は投入を超えられない。たとえばコンビニエンスストアーの売り上げは予定を超えられない。それは常に投入を継続しなければニーズに応じると言う目途が達成できないからだ(ごくまれに一致することがあるのだろうけどね)と言ったようなこと。

ところが困ったことに、感情を移入することは、たびたび独立して、又は、他より優先してなされる。というか、感情移入という現象は、それはもともと感情を投入していることから始まっているんだけど、いつしか我を忘れ、もともとの投入についてはもうどうでもいいみたいな感情に変貌して行って、すると自我の統制が空白な状態になって、無知無我的などうにも格好の悪い、面倒な状態に陥ってしまう恐れがある。

感情移入の状態に性質とか、品質とかがあるのだとしたら、最良なものなんて、おそらくはあまりそこらじゅうにあるようなものではないのだろう。

もちろん、投入するのは感情だけではない。そして、感情だけを捉えて、その個人を評価することは、それこそ無知無我的なものといわざるを得ない。

すると、その感情と言うものは、
面かそれ以上のものであって、決して線ではない。

幼かったころ、数十CCのシャボンを床にたらして、ストローで静かに息を吹き込んで、半球のシャボン玉を膨らませる遊びをやった。丁度そのシャボンをたらしたのが投入で、膨らませたシャボン玉の表面に光る虹色の縞模様を眺めていて夢中になっているのが移入の様だ。(うはぁー、思い起こせば、なんて創造的なことをしていたんだろう。一日でいいからあの頃に戻りたいねぇ。)

そして、その遊びで感情移入していたのが、実は感情だけではなかったとしたら、おそらくそれが、冒頭の設問に対する正確な答えになりそうなんだが、今となっては詳細に思い出すことはもはや出来ないので、こうして言葉をだらだらと連ねることによって、それを模索することしか出来ないんだろうな。
by cicadas | 2005-07-24 01:17 | 感情論(徒然に